『苦手』
2004-03-22
長男8歳、長女4歳
雨の中、子どもふたりを連れて歯医者に行った。音、匂い、白の壁と鈍く光る銀色の医療器具…。やはり、苦手な世界だ。
なのに、今日は私も治療を受けなくてはならない。子どもの前では、なるべく平気で楽しげな表情をせねば。自分の次は、子どもの番になる。
治療後、不安そうに待合室で待つ子ども達に
「全然痛くないよ! ああ、虫歯が無くなってすっきりした」
と満面の笑顔で言ったつもりが、麻酔のために口がいびつにひきつり、情けないほど半開きで「れんれんいらくないよ」。全く自分の目が笑ってないのがわかった。
(ママ、ムリしてる。)
と、私を見つめる冷静な4つの目が語っていた。
「ごめん」の代わり
『暮らしの柄』というホームページのを立ち上げ、日記を綴り始めたのが2004年2月だった。上記は、その初回である。
当時8歳の息子は、現在30歳。3歳の子がおり、職場の制度を利用した留学で、一家でアメリカに暮らしている。
4歳だった娘は26歳になる。演劇の道に進み、毎日舞台とバイトに忙しい。
私は息子の出産と同時に、編集プロダクションを独立した。フリーライターも母業も新米で、とにかく毎日がしっちゃかめっちゃかだった。子どもの行事は忘れるわ、進級に必要な書類を出し忘れるわ、弁当のすきまに弱り果て、ちぎったピーナツパンで埋めたら「おかん、さすがに菓子パンはおかずにならん」と諭されるわ。
そんな日々の合間に、日記を綴っていた。
最近、手違いでデータのすべてが消えた。読み返すことがほとんどなかったのに、あのなんでもない日々の記録が、地球上からなくなったのだと思ったとたん、とてつもない虚しさに襲われ、自分でも驚いた。
しばらくしてどうにかテキストを救出。読み返した。思いがけず涙がこぼれた。
泣いたり、笑ったり、悩んだり、迷ったり。
指の合間からサラサラとこぼれ落ちていったように思えた日々が、短い言葉や行間から鮮やかに立ち上がる。二度と戻れぬ尊い時間がそこにあった。
本連載では、4歳8歳の子が、親になったり自分の道を歩き始めるようになったりするまでの日記をもとに、20余年前の視点と現在の視点を綴る。
歳を重ねるほどに、時間は一方通行ではなく、循環するものだという思いが強くなった。娘だった私が母になり祖母になり、息子は父になり。大きな円は、どれもあの日につながっている。
平凡ないち家族の行ったりきたり円環日記。様々な時空を散歩するような気分で読んでいただけたら嬉しい。
ちなみに表題は、昔の我が家の誕生日写真を見た長男の妻が「ママ(私のこと)も、こういうケーキ焼いていた時期があって安心したあ」というつぶやきから。うまくふくらまず、たいらで、生クリームも苺もへなちょこの手作りケーキが映っていた。
……
さて歯医者である。子どもの頃から歯医者、と聞くだけで背中がひやっとなるくらい苦手だ。しかし母親たるもの、子どもの前でおじけづくわけにはいかない。子どもたちにも、歯医者に苦手意識を持ってほしくない。
22年前のこの日の記憶はほとんどないが、「歯医者よいとこ一度はおいで」くらいの空気にせねばと必死だったのだろう。
ところで昨夏、息子家族と散策している時、たまたまゲームの話になった。
「俺、小4か5年の時、歯医者にひとりで行かされて、その日に歯を抜くのを知らずに行ったらいきなり抜かれて。ショック受けて帰ったら、急におかんが言ったんだよ。“今からゲームソフト買いに行こう!好きなの買いな”って。あれはびっくりした」
彼は懐かしそうに、ふだんゲームを目の敵にしている親から買ってもらった思い出を語ったのだが、私はぎゅううと胸が締め付けられた。
そうだ、あの日ひとりで歯医者に行かせたのだ。しかも慣れない電車で4駅先まで。
初回は付き添って歯医者に行き、抜歯の予定を聞いていたのに忘れていた。軽い気持ちで、仕事も休めないし男の子だし、と二回目からひとりで通院させてしまった。
どれほど怖かったことだろう。小学生の男の子が、名前を呼ばれ椅子に座った途端、「歯を抜きますよ」と言われるのだ。注射を打たれ、眼の前にペンチのような抜歯の道具が迫ってくるのだ……。
なんでひとりで行かせてしまったのか。申し訳なさ、仕事優先の身勝手な自分の冷酷にいてもたってもいられず、苦し紛れにゲームソフトと言った。あの苦かった気持ちを思い出す。お金で解決しようとする短絡さがまた情けない。だがきっとそうするよりほかに、眼の前の人を今すぐ元気にしてあげられる方法が思いつかなかったのだ。
日は落ち、駅から飲み客が商店街に向かう。私と息子と娘は、それらとは逆方向に足早に進み、閉店間際のソフト屋にとびこんだ。茶髪の店員。夜の街。蛍光灯に照らされたガラス棚の中のソフトの空き箱。胸の痛みとともに、光景がありありと蘇った。
なのに私は30の息子に、「あのときはごめん」をまた言いそびれた。
とうにソフト屋はなくなったが歯科医院はまだある。4つ先のその駅を通ると、ふっと考えるようになった。ごめんなんて、今頃謝っても遅いよな──。