今回の暮らしの取捨選択に登場するのは作家・エッセイストの大平一枝さん。「ワーキングマザー」「ワンオペ」といった言葉もまだない時代から、葛藤を胸に仕事と子育てを並行してきました。当時の苦い思い出、そして自身の変化。「今の自分に必要なこと」「手放してきたモノ」についても詳しく話を伺いました。前後編連載。後編はこちら。
30代は、息子からのSOSに気づけないほどに時間が“破産”していました
東京に暮らす人々の台所を取材し独自の視点で綴る、朝日新聞デジタル『&W』の人気連載『東京の台所』、そして仕事にまつわる最新エッセイ本『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』。大平さんは29年間にわたり、“書く”ことと向き合ってきました。
29という数字は、大平さんにとって転機の始まりを意味します。
「結婚し、長男を妊娠したのが29歳のとき。出産を控えた翌年、編集プロダクションから独立しました。フリーランスに産休も育休もありません。立ち止まることなんて考えもせず、産後もすぐ復帰してがむしゃらに働いていました。『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』でも書きましたが、私はこの時期のことをブルドーザー時代と呼んでいます。5年ほどそんな状態が続いていたある日、保育園の先生から話があると声をかけられました。『息子さんはずっと寂しそうです。もうちょっと仕事を調整して息子さんと向かう時間をつくっていただけませんか』と。下の娘が生まれたこともあり、恥ずかしいことに、私は息子のSOSにまったく気づいていなかったのです。今の仕事は、息子にこんな思いをさせてまでやるべきなのだろうか。他の誰でもできる仕事をたくさん私が受けて、そのせいで家族が壊れてもいいのか。同じく働き詰めだった夫とも話し合って、いったん立ち止まることを決めました」
家族が私の仕事の犠牲になってはいけない。過去に戻れるなら、こどもたちとの時間を最優先に
大平さんはそのとき抱えていた仕事をリセットし、家族4人で海外旅行へ。3週間、予定をいっさい入れない環境に身を置きました。
「朝起きて、今日は何をしようか?と話し合うところから1日が始まる旅でした。この経験を境に、家族の心の距離が近くなったことを実感。私は仕事が好きだし、書き物をしていない自分を想像することはできませんが、それは心の豊かさがあってこそ。私の心の健康は、家族の心の健康とも深くつながっている。家族が私の仕事の犠牲になってはいけないのです。私と家族の心が健やかでなければ、書くものにも嘘が出てきてしまいます」
現在では息子さんも娘さんもすでに成人し、それぞれ自分の道を進んでいます。
「子育て中はずっと余裕がなく、仕事との両立を負担に感じていた時期も少なくありません。たった3週間の海外ですべてが変わるはずもなく、その後も何度もこどもたちに寂しい思いをさせてきたと思います。今はそのとき言えなかったことを伝え、気持ちを表して母親をやり直しているような気分です。人生でこどもと関われる時間なんて、本当にほんのわずか。渦中にいると気づきませんが、必ず終わりが来ます。何をさて置いてもぎゅっと抱きしめて、一緒に過ごす。子育てを楽しむ。こどもが小さいうちはそれだけでよかったのではないか、と今ごろになって思います」
人を変えることはできない。驕り高ぶる自分を律し、やみくもに忠告するのをやめました
母親としての経験が大平さんに気づかせてくれたことは、もうひとつ。それは、幸せの価値は人それぞれだということです。
「中高と大学附属校に通っていた息子は、高校卒業後に内部進学しないという選択をしました。そのほうがラクだろうと親が道を用意していたのに、息子にとっては進むべき方向ではなかったということです。私がそれに納得し、決断を受け入れるまでにはずいぶん時間がかかりました。幸せや豊かさの価値を決めるのは他の誰でもなく自分自身で、周りの人間ではありません。親の思う通りにこどもをコントロールすることはできないですよね」
これはこどもだけではなく、仕事相手に対しても同じ。
「人の考え方や行動はそう簡単に変えられません。自分が正しいという奢った気持ちがあると、相手を否定して傷つけることになってしまう。いい意味で一歩引くことも必要です。でもこれはまだまだ至らないことを自覚しています。つい最近も仕事の場面で感情的な言葉をぶつけてしまい、大反省したところです」
帰宅前に、バーでウイスキーを1杯。肩書きのない、匿名の私になれる時間が好き
大平さんの心が解放される第三の場所。それはバーです。
「旧姓を筆名としている私は、仕事では大平一枝。家ではお母さんであり、妻としての時間があります。バーは、そのどれでもない私として匿名の時間を過ごせる場所です。仕事が終わり、家に帰る前にシングルモルトウイスキーを1杯。バーテンダーと2人きり、もしくはまったく知らない隣の誰かとたわいもない話をするだけですが、フッと心がほぐれます。お互い肩書きを知らず、共通の知り合いもおらず、名前のない人の集まり。共通の知り合いがいないから、悪口で盛り上がることもありません」
ここで交わすのは、お酒の話、旅の話、文学の話、音楽の話。ウイスキーという核に付随する、大平さんにとって心地よいテーマばかりです。
「氷がゆっくりと溶ける、その“間”をただひたすらに楽しむ空間です。1週間を過ごすうち、この時間があるかないかで心の充実度が大きく変わると確信しています。強いて言うなら、バーでの時間は日常のなかの句読点。子育てが落ち着いた今だからこそとれる、私だけのための時間ですね」
今回教えてもらったのは……
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大平一枝さん
作家・エッセイスト。1964年生まれ。市井の生活者を独自の目線で描くルポタージュ、失いたくないもの・コト・価値観をテーマにしたエッセイを執筆。著書に『そこに定食屋があるかぎり』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』ほか、『人生フルーツサンド』、『東京の台所』ほか多数。
書籍紹介
こんなふうに、暮らしと人を書いてきた(著:大平一枝)
平凡社
1,760円(税込)
https://www.heibonsha.co.jp/book/b643615.html