大平一枝

大平一枝

エッセイスト。1964年生まれ。市井の生活者を独自の目線で描くルポタージュ、失いたくないもの・コト・価値観をテーマにしたエッセイを執筆。著書に『東京の台所』、『そこに定食屋があるかぎり』、『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』、『人生フルーツサンド』、『注文に時間がかかるカフェ』ほか多数。

https://www.kurashi-no-gara.com/

『失った自由トップ3』

2004-05-04
長男8歳、長女4歳

 黄金週。閑散とした東京に戻る。子どもが発熱で外出できない。

 やることもないので、午後3時から風呂に入った。ものすごく久しぶりにひとりで、2時間ほど。冷水、温浴を繰り返しながら、書評で扱った『日々是作文』(山本文緒)を読み直す。

 こんなゆっくりした入浴は久しぶりだと思う。独身の頃、朝だろうが昼間だろうが、好きなときに好きなだけ風呂に入れた。今は、時間においたてられるようにして子ども二人の体を洗う。風呂を出たら、母さんぐったりてなかんじ。

 たっぷり汗をかきながら、独身の頃にあって今の私にない自由のうち、とりわけ惜しいものを三つ考えてみた。

1、ゆっくり風呂に入る時間
2、好きなときにふらっと映画や飲みに行ける自由
3、休日の午後、ビデオを見ながらビールを飲む時間(テレビのチャンネル権は知らぬ間に子どもたちに譲渡されている)

「子育てなんて長い人生のほんの一瞬よお」と、よく言われるが、日曜の午後、ビールを飲みながらビデオ3本ぶっ続けで見られる日がそんなに早く戻ってくるとは思えない。

 そう思っていたら、山本さんの本の『何かを失うと代わりに必ず何かを得るということを、いつしか人は納得していく』という一行にぶつかり、少しだけ私も納得した。

 そう、ないものはない、あるものはあるのだ。

まだ親がしつらえていた子ども部屋。その後2分割にリフォーム。

壮大な堂々巡り

 我が子がこの年齢の頃、私は「時間が破産している」という言葉をよく使っていた。文法的には誤りだが、企業がいろいろ抱え、パンと弾けてなくなるイメージの「破産」に、あの頃の時間のなさが重なり、これ以上ぴたりとハマる言葉が思いつかないくらいだった。
「忙しい」とか「あわただしい」とも違う。
 あとのことをなにも考えず、ゆっくり湯につかったり、日曜の午後にビールを飲んだり、寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。好きな映画をテレビで見る。そんな、今できているなんでもないすべてのことが、ある一時期だけ“永遠にできない”と思えた。
 まさしく、時間が破産していた。やっかいなのは、そこに自分だけ世界から取り残されたような孤独感が張り付いていることだ。

 そんなふうに思ったことがないという子育て経験者もおられるだろう。この日記を書いた日から21年経た私も、あの独特の感情をほぼ忘れつつある。
 娘が10歳の頃には私もゆっくり風呂にひとりで入っていた気がするし、『失った自由』のうち2と3も、何年かして手に入った。すると、あんなに悶々していたことをきれいさっぱり忘れてしまう。
 振り返れば、長い人生のほんの何年かなのだ。けれど、ゴールが見えない当時は、永遠に感じる。

「ないものはない、あるものはある」なんて、一生懸命自分をなだめているようで、「あんたも頑張ってたんだねえ」と昔の自分に声をかけたくなった。こうだれかにねぎらわれたら、ずいぶん救われただろうなあとも思う。

 息子は父になり、娘ももうすぐ巣立とうとしている今の私には、失った自由を書き出しては自分を慰めているあの日の自分が羨ましくてたまらない。
 いいなあ、悩めて。あなたの手や笑い声や世話を必要とする小さな人が、目の前にまだふたりもいて。
 そのうち、必ずそれを必要としない日がやってくる。あなたが思っているよりずっと早く来て、あたふたする。母業を卒業する心の準備がまったくできていなくて、どうしようと思っているうちに、その子たちにも大切な家族が増えてゆく。

 子どもの自立を喜ばねならない立場なのに、いつまで経っても私は、柱の陰やおやつ入れの箱に、幼い人たちの記憶のかけらを見つけては、ほんの少し切なくなるありさまである。もっと手をかけてやりたかった、こうしてあげたかったと、いまさら考えてもしょうがないことばかりを数えては、いかんいかんと頭を横に振る。「あなたの文章に共感できない。私は子どもの自立は嬉しいもんでしたよ」と、年配の女性に言われたこともあったではないか。
 いつまでも、ないものばかり数えていては発展がないぞ。と、ここまで書いて気づいた。そう、ないものはないかわりに、あるものはあるのだ。

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