『帰省』
2010-01-04
長男15歳、長女11歳
長野の実家へ元旦から帰省。
突然行って驚かせようということになり、元旦の夕方に車で出発。
「きっとおじいちゃん、嬉しすぎて半ギレするよ」という娘の予言通り、父は「なんだ、連絡くらいくれないと困るじゃないか」と、セリフは怒っているんだけど、目尻が全力で下がっている。母は「なんにも食べるものないよ」と言いながら酢だこを切りわけ、緑茶を入れていた(すごい組み合わせ)。
こたつのように、ぬるくて甘い実家の日々。ずっとここにいちゃだめだと強く思って家を出た18の時のことを思い出していた。
愛情が鬱陶しかったのか、今はうまくあのときの感情を言葉にできない。
息子はあと3年でその年になる。……家族ってちょっとせつない。
せつなさの正体
8月。帰省の季節である。
今日、打ち合わせの現場で、子どもが巣立つのはいつだろう、という話になった。私より少し上で、お孫さんのいる女性が「あまり巣立つとか、親を卒業するという意識はない」とおっしゃっていた。また別の、ふたまわり下で、小学生の息子さんがいる女性も「子どもを育てているという感覚がなく、人として見ている。だから卒母とか子育て卒業という言葉はぴんとこない」と話してくれた。
なぜだか私は、ふたりの子が家庭を持った今も、巣立ってしまった寂しさに慣れない。空の巣症候群のような喪失感とも違う。家人とも、毎日台所などで小競り合いをしながらも賑々しく暮らしている。
けれども、もうあの騒々しい4人暮らしはないのだと思えば思うほど、不意にとてつもなく淋しくなる。
私だけ、いったいなぜだろうと考えた。そして、16年前の日記を見て、ひとつ思い当たったのである。
私は進学のため18で故郷の長野を離れた。
上記日記にもあるように、当時は、しつけの厳しい実家が嫌でしょうがなかった。高校のクラスの、女子だけの卒業旅行も親から反対され、ひとりだけ参加しなかった。堅物の親を説得するより友達の温情にすがって辞退するほうが気楽だったのだ。今思えばもっと親と戦ってもよかったと思うが、どうせ無理で疲れるだけだ、と早々に放棄した。
早く親元を離れたい。都会へ行きたい。そればかり願い、地元の短大は受けなかった。
我が子が10歳を超えた頃から、自分が家を出た18歳という数字に縛られ、「一緒にいられるのはあと8年、7年……」とひとりでカウントダウンをしては、そのときが早く来ませんようにと願うようになった。
子どもの成長は、喜びであるのと同時に、せつなさも増す。子離れできていないと言われればそれまでの、器の小さな親であった。
ちなみに前述の女性のひとりは東京出身。社会人になってもしばらく実家から通ったそうだ。もうおひとりも関東近郊の出身だ。
独断でしかないが、少なくとも私は、子どもたちに自分の18歳の旅立ちを投影していた。春や巣立ちは、せつない別れの季節なのだというように。
結果から言うと、息子は22で同棲、結婚。結婚後しばらくは都内にいたのでいつでも会えた。せつなくなるような距離感ではない。先日結婚した26の娘は、新居が決まるまで現在も我が家で一緒に暮らしている。
18で故郷を離れて以来、多くても盆暮れの2回、少ない時は1回しか帰れなかった自分の若い頃とは、我が子らの巣立ちという言葉に対する解釈や心の距離感は、まるで違うだろう。
来るぞ来るぞと、早くからいたずらに子どもの巣立ちを恐れていた私は、その感覚をなかなか手放せずにきてしまった。
また、出産とフリーライターとしての独立が重なった私は、どこか仕事中心で、子どもたちに十分に接してやれなかったという悔いも大きい。
手はかからなくなるが心の見守りが必要な思春期も、仕事を優先してしまった。
連絡なしのサプライズで、4人で帰省したときの両親の嬉しそうな顔は、今も忘れられない。「驚かそう」と言い出したのはたしか11歳の娘だった。
以降も、そんな突然の帰省を何度かした。そのたび「あれまあ!なんてこと」と両親はあわてながらも相好を崩した。
自分が親になり、初めて18のあの時は申し訳なかったな、ずいぶん寂しかったろうなあと、省みるようになった。せめもの親孝行、いや罪滅ぼしを、突然行って驚かせようなどと無邪気に発案する我が子たちに託していたのかもしれない。