トラック6台分もの荷物を片付け、動物たちとのフラットな日常を慈しむ西原理恵子さん。その穏やかな表情の裏には、30年以上にわたる「戦い」の日々がありました。締め切り、育児、死別、そして介護。自分以外の誰かのために身を削り、長い「うつのトンネル」を歩いてきた彼女が、還暦を迎えてようやく見つけたのは、自分自身を最優先にする生き方です。
西原さんが「黄金の15年」と呼ぶこれからの時間、そして健やかな心と体を保つための「三種の神器」について。38年目にしてようやく「基本」に立ち返ったという、漫画への向き合い方の変化についても伺いました。

山野井春絵

山野井春絵

思春期まっただ中の10代男子と、天然な夫との3人家族。鎌倉の小さな家で、インコとワンコと共に暮らしています。趣味は旅と料理、マイペースでフランス語を勉強中。

西原理恵子 プロフィール

1964年高知県生まれ。マンガ家。武蔵野美術大学卒。1988年、週刊ヤングサンデー『ちくろ幼稚園』でデビュー。1997年に『ぼくんち』で文藝春秋漫画賞、2004年『毎日かあさんカニ母編』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、2005年には『上京ものがたり』、『毎日かあさん』で手塚治虫文化賞短編賞、2011年に『毎日かあさん』で日本漫画家協会賞参議院議長賞を受賞。著書に『この世でいちばん大事な「カネ」の話』『パーマネント野ばら』『ダーリンは81歳』『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』『りえさん手帖』など。最新作は『ねこいぬ漫画かき1』(新潮社)。

30年以上の騒乱を終え、ようやく60歳からはじまる黄金の15年

「今までね、20歳すぎから30年以上がむしゃらに、一日も休みなく漫画描いて、その間に夫を見送り、それからこども2人を大学に入れて、それから母をずっと介護でしょう。こどもたちも大人になり、母とも住まいが別になって、今、やっと静かな生活になったんですよ。この『静けさ』が本当にありがたくて」
西原さんの漫画にもたびたび登場するお母様・淑子さんは、認知症を患い、現在はふるさと高知県の施設に入っています。
「まだまだ足腰も口も達者なんで、毎日誰かに『泥棒だ!』って言いながらも元気でやってますよ。うちにいたときから混乱がひどくて大変だったんですけどね。90歳過ぎてもあまりに元気だから、母の寿命と自分の人生について考えたんです。その時、私が60歳。75歳まで元気に動けるとしたら、残りは15年。母は、その時93歳、この調子で絶対に100歳まで生きる。その間、私は介護を続けなければいけないのか。ということは、私が、私のために使える時間が、10年分なくなる……こりゃダメだ!と思いました。そこで、スパッと割り切って、施設を探すことを決めたんです」

うつの長いトンネルを抜けて、やっと穏やかな時間を手にした

お母様の介護を「プロの手に委ねる」という決意をしてからは、西原さん自身にも大きな変化がありました。10年以上飲み続けていたうつ病の薬も減り、今は「長いトンネルを抜けたような気持ち」だとか。
「母の混乱がひどくなってからは、もうめちゃくちゃ。家の中がひっくり返りそうなほどでした。私もずっと、『誰か怖い人が追いかけてくる、何か怖いことが起こる』という考え方しかできなかったんです。今日より明日は絶対悪いことが起こる、だから今はもっと漫画を詰めなきゃって、追い込まれたような気持ちになっていました。一人になって、それがだんだん、なくなってきました。悲しんだり、怒ったりすることに時間を使うのは本当にもったいないな、と気づいた。今はとにかく明るい方向を、一生懸命見ている感じです」
ようやく手に入れた静かな生活。西原さんにとって、こんなに穏やかな毎日が過ごせるのは、「初めて」のこと。
「ここから後期高齢者になるまでの、自分のためだけに使える時間が、『黄金』だと思います。動物たちみたいに、いいことだけを考えるという余裕も出てきました」

60歳からの三種の神器は、「毛のもの」「筋トレ」「晩酌」

日々の仕事のペースも、以前とは大きく様変わりしました。
「今は週に5日、だいたい10時から16時くらい、仕事をしています。途中で2時間ぐらいだらけてますね。『今日は4時間も働いちゃった〜』みたいな。きりのいいところで、さっさとやめちゃう。昔はもう、考えないで下書きもなくガーッと描いていたから。今は立派なものですよ、ちゃんとネームを考えて、下書きをして描くという、基本からやってます。38年目にして、やっときちんと漫画を描くようになった(笑)」
誰かに怒鳴られることもない。徹夜もない。締め切りに追われることもない。その才能と責任感から、身を削って全力で走り続けてきた西原さんですが、これからの自分の時間を健やかに過ごすために、大切にしている「三種の神器」があるといいます。
「まずは毛のもの(動物)。毛のものがいると、心が穏やかになります。それから筋トレ。筋トレは8年ほど続けています。痩せることはないんですが、健康寿命を保つためと、うつに引き戻されないように。効果はあると思いますね。それから、ちょっとおいしいものを食べて、お酒を飲むこと。そんなにいいものじゃなくていいんですよ、500円のレモン酎ハイでいい。夕方になったら近所の居酒屋へ行って、ちょっとしたつまみと酎ハイ。それを続けるための健康維持ですよね」

三種の神器に加えて心がけているのは、「穏やかな心」。
「黄金の15年を、とにかく一瞬でも無駄にしたくないんですよ。ネットで人の悪口に飲み込まれて、悪い心になっちゃう人、同世代にたくさんいる。ああいう、感情に波を立たせるようなことには触れたくない。みんなを薄目で見てね、いちいち怒らないこと。人のことなんて考えたら腹たつことばかりだから(笑)、毛のものとの思い出が一番ですよ。憎しみもない、ツッコミもボケもない、誰もなじらない。そういうのどかな漫画を描きたいな、と思っています」

捨てられない「宝物」とこれからの願い

モノを溜め込まない主義の西原さんですが、「捨てられないモノ」もありますか? そう聞くと、西原さんはデスクの上にあるはらぺこあおむしのペン立てを指差しました。

「猫の頬のひげ。これ、好きです。亡くなっても、不意に出てくることがありますね。私にとっては宝石よりも、大切なもの。ぽんさんのお骨も壺に入れたままですし。あとはガリガリ君の当たり棒とか」

「昔は『働かない男』が捨てられなかった(笑)。突っ込んだ馬券を捨てられないという感じでした。まあこれは相手じゃなくて、私のチョイスが悪いんですけど。今の彼氏が、初めて『金貸してくれ』って言わない男です。彼は、私にとってはお手本のような存在。常に正しくあろうとする彼を見ていると、これからの人生が、本当に貴重に思える。1秒も無駄にできない、と思えます」
西原さんが、これから「黄金の15年」の間にやりたいことは何ですか?
「うーん……特にこれがやりたいっていうことは、ないんですよね。旅行も、全然したいとは思わない。今の生活がいいから、これをゆっくり楽しみたいです。怒らず、憎まず、悲しまず。ゆっくり仕事して、のんびり毛のものと一緒に過ごしていきたい。そして夜には少しの晩酌を。これが最高かな」
嵐のような30年を走り抜け、ようやくたどり着いた凪の時間。住まいを整え、余計な感情も手放し、ただ目の前の「毛のもの」を慈しむ。そのシンプルな暮らしぶりは、私たちがこれから迎える人生後半の歩き方を、明るく照らしてくれているようでした。

最新作『ねこいぬ漫画かき1』(新潮社)

笑いあり、癒しあり、せつなさありのサイバラ流センチメンタルコミック! アメショーの「文治さん」「菊美さん」「こぶちゃん」の愛猫3匹に加え、新たにやってきた保護犬のゴールデンレトリバー「ぽんさん」。怖がりで外が嫌いだけど、90代で超毒舌の母・淑子すらも思わず慈しむかわいさで、かけがえのない日々が始まる……。
『ねこいぬ漫画かき1』(新潮社)

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